何故か私は、この曲に「緑深い森」のイメージを持っています

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Prokofiev (1891-1953)
Symphony No. 4 in C major, Op 47 (Original 1930 version)
Gurenich-Orchester Koln
Dmitrji Kitajenko
Phoenix Edition 135 5-CD set (2007)

敬愛する作曲家の作品を聴楽するのみならず
作品の発表に至るまでの過程も
最近では大いに気になることがありますね
ある程度は名の知れた作曲家が「こんな曲書いてみたよ、どうだい?」
でもって「おぉ、そうかい?」なんて形では曲は演奏されませんし…

1930年11月14日のボストン交響楽団創立50周年記念演奏会にて初演
当時のかなり知名度の高い作曲家が作品を寄せています
常任指揮者はSerge Koussevitzky (セルゲイ・クーセヴィツキー 1874-1951)
この頃だと、ツテというか人脈というかがまだ力があったように思います
今だとおそらくは楽団の委員会みたいな所で合議なんでしょうけど
まだ大らかな時代だったということなんでしょう
(ちなみに、同年12月18日のパリ初演指揮はMonteaux モントゥー)

既にプロコフィエフの伝記の梗概は殆ど暗記してしまっている程で
投稿する度に何か新しい発見はないかと
最近は時々Harlow Robinsonの伝記を参考にしていますが
興味深いのは (本を読んでの私の推理を入れますが)
この曲を作曲当時のProkofievには
既にそれまでの強烈な作曲スタイルから一つ抜け出た
新しい簡潔性 (複雑な和声をともなう各素材を整然と組み合わせる?)
を狙ったものが出ているにも関わらず
欧米の聴衆の方が彼に対して以前のイメージを固着させたため
不遇な作品が多数発表される形になったと考えられることです
(打楽器の編成も控えめですし、目立って活躍する瞬間もありません)

他に、素材の過多という話もありますね
似ても似つかない第3交響曲と比較されているのですが
とにかく多くのネタを一つの曲にギッシリと詰め込んでいます
Prokofievの職人気質からすれば、そんなことは当然なんでしょうが
それは聴き手側にも何らかの負荷を与えるのでしょうねぇ

全くオリジナルの素材を生み出すことを放棄して
バレエ《道楽息子》Op. 46の素材に芽を発見したProkofievでした
第1楽章の展開部は、敢えてバレエに使用されなかった素材のようですが
(改訂版Op. 112には全く登場しないので、初聴楽の時は驚きました)
かつての聴衆に牙を剥くような荒々しく尖鋭な要素もあるパッセージが
上手く全体の静的趣に融和しているようで
彼の作曲姿勢は「次のステージに昇ったのだ」と気づかされます
(Robinsonの記述の説得力を証明していると感じますよ)

当時の聴衆が最も戸惑ったのは第4楽章だと思います
それまでのProkofievを知っている聴衆ならば
もしかしたらこの楽章は無表情な盛り上がりに終始する不気味な音楽
そう聴楽してしまったかも知れません
これこそピアノ協奏曲第4、5番に繋がるような
精緻な構成=新しい簡潔性だと推理したくなります
非常に多数ある各種パッセージ自体はモノトーンに響き
かなり緊密に縒り合されていますから、演奏時間の短さに比して
聴楽していて、かなり息詰まる(苦しい)ものを感じるかも…

さて、Kitajenko (キタエンコ 1940-)の演奏は
21世紀の管弦楽団の機能全開で、Prokofievの狙いを再現します
演奏時間約27分と、彼の交響曲中2番目の短時間ながら
作品の驚異的な目の詰まり具合を明晰に鳴らしてくれますね
録音も、迫力ある低音が効いているのが特徴で
「音楽が盛り上がって楽しい」「気分が高揚する」とは別趣のカタルシス…
浪漫派的な感情とは別の場所に存在する音の動きの快楽
(かと言って、メカニカルな動的興奮とも違う)
う~ん何ていうのかな、満足感に繋がるんですね

一応はハ長調なんですが…
この「わからなさ」、これがイイんですよ!

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